ドイツでずっと暮らす

ドイツ移住の10年先、20年先を考える。



ドイツへ移住する人はそれぞれの理由があって日本からドイツへ渡るのだろうけれど、駐在さんや留学生の他にフリーランスや新しい生き方を模索する人にも最近はとても人気である。その理由はベルリンという独特な雰囲気と世界観を持つ街の特徴とも当てはまるであろう。しかしほとんどの人の根本的でかつ共通の移住理由、それは日本での生活が生き辛く感じることがあるからである。こればかりは個人差なのでそう感じないけど海外へ移住した人も中にはもちろんいるだろう。少なくとも私がドイツ移住組としてドイツで出会った人々の9割は日本で人生を全うするのに不安や不満を抱いていたり、満足していないという理由を持つ人だった。何度も言うが個人的な感想であり、私が出会った人という数少ない統計なのでそうじゃない人がいることは大前提である。

 

一番印象に残っているのは同世代の移住者、移住希望者が多いということだった。世代で言えば80年代生まれ。そして離婚を経験している人たちがとても多い。日本で一度結婚をして数年で離婚。その理由は本当に様々だが共通している点が一つ。結婚で幸せになれなかった、ということ。20代の頃に付き合っていた人とゴールインしたももの、仕事や生活を毎日こなしていく中で思ってた以上の達成感や自己満足を得ることができなかったという。そして海外旅行などで外国の文化に触れ、インターネットの普及で海外移住へのハードルが下がり、夫婦の価値観や人生観にズレが生じて離婚。色々な条件が重なった時、彼女彼らは「私はこのままで良いのだろうか?」と自問したときtお「いいえ、このままではきっと後で後悔する」という答えにたどり着いたという。それからは急展開で貯金残高の確認、退職届、離婚、移住、、、、となる。

 

ー私はこのままで良いのだろうか?ーという自問に対しどれくらいの人々が自分らしい答えを導くことができるのだろうか?この問いに正解がないのは一目瞭然だ。なぜなら自分の人生なのだから自分が正解だと思うものを選べばよいのである。しかし人生を生きるというのは酷なもので、個人の人生の中には両親の介護や夫の世話なども含まれているのである。ドイツで暮らしながら思うのは、親の面倒を子供が見るという方程式が人権というか一人の人間の人生を好きなように生きる、という権利の領域からはみ出ているのではないか?と私は常々思うのである。

 

人生を好きなように生きる。これができなければ何も始まらない。そして「好き」という自分の心の声に鈍感な人々が多く、何が好きなのかわからないという不感症丸出しの人も少なくないだろう。彼らが不感症になってしまった原因は様々だ。特に私のような世代の人々は立派に大学を卒業して就職して結婚、出産、マイホーム、孫、みたいな理想とされる人生のマニュアルみたいなのがインプットされているようである。誰かがそうしろ、と命令するわけでもなく。けれど実際に多くの私たち同世代の親たちは正社員、正規雇用じゃないとダメ、みたいな価値観を持つ人がとても多い。実際に安定した収入がないということは日本で暮らしていく上で弱者となる。それゆえに収入=幸福な人生、と思い込みがちだ。けれどそれに対して矛盾を感じ始める人がどんどん出てくる。お金があっても幸せにはなれないのは、今でこそ理解しようと思えば誰でも理解できるし、反論しようと思えばできる。結局のところ、自分自身がこれで良いのだという決定を下すことが何よりも大切なのである。私が言いたいのは、ーこれで良いのだという決定を自分自身で下すことーこれだけである。大切なことで2回書いた。

 

実際に自分で良いという判断を下しても、それについて回るものがとても多い。見栄とか人付き合いとか家族からの批判とか、社会保障を満足に受けることができないとか。社会保障に関しては日本という国はとても劣っている。このテーマは政治的になるのと私の管轄外なのでここでは割愛。自分が下した判断でついて回るもの、経歴や持ち物でその人の価値を測るということとも言える。東京のような大都市で育ったらそうでもないが、田舎や家族単位を異常に大切にする環境で育った人になら理解しやすいだろう。自分がどんな職業に就くか、誰と結婚するか、どこの大学出身かということで人間をランク付けする風潮が強く根付いてる。東大を出たから立派という価値観はさすがに若い人にはこういった価値観はもう無いだろうとは思う。しかし少子高齢の社会となっては若者は常にマイノリティーということを忘れないでほしい。いつまで経っても老害と呼ばれる老人たちの価値観が世間を支配しているようなもの。だからいつまで経っても正規雇用こそが全てのような価値観が蔓延しているのである。

 

海外移住希望者が目先の欲にかられて、色々なことを見落としがちなのが海外へ移住したらかっこいいからという見栄である。最近の移住ブログには見栄満載の意識高い系の勘違いブログが多くて吐き気もするがそういうことは日本でやってろ、といったところだ。 見栄で固めた人生も嘘で固めた人生も結局のところ、それらは全部他人の評価といういつでも風向きが変わるものに翻弄されながら生きなければなら無い。そんな人生、どこに実が成るのだろうか...

 

自分という人間と、その人生。だれかの評価は必ずしも必要ではない。評価というのはただのツールにしかすぎないのである。